〈4.霧に沈む森〉
建物の中を満たしていた強烈な光が消え去ったのを感じた私は、恐る恐る目を開いた。周囲の様子は目を閉じて床に踞る前と何も変わっていない。
台座の上の器械に目を向けると、それは役目を終えたかのように元の位置へと動き出していた。何が起こったんだろう。
「おねいちゃん、本!」
クレアの声で機械から目を離した私は、先程自分が手を乗せていた台座の上に、見覚えのある一冊の本がひっそりと置かれているのに気付いて目を見開いた。
「やったね! これで帰れるよ!」
私は自然に笑顔になりながら本を手に取り、表紙の紋章を回して錠を開く。
そしてぱらぱらと頁をめくっていくと、すぐに目的の場所が見つかった。そこには私たちがこの世界へと入った場所である新しい家の書斎が描かれており、その隣の頁には<家>とだけ書かれている。
今すぐにでもその言葉を口にして帰りたい気持ちだったが、私は一旦本を閉じてポケットに入れ、ぬいぐるみを抱いて立っているクレアと視線を合わせた。
「ねぇ、クレア。あのお爺ちゃんを助けたい?」
尋ねられたクレアは、唇を尖らせて少し俯いた。難しい事を考えるときの癖だ。
私はこの世界で見つけた本の世界に閉じ込められていたウラストと名乗る老人を助けるべきか、無視するべきかずっと迷っていた。
老人との会話が無ければここまで辿り着けなかっただろうから、もちろん感謝はしている。だけどもう一人のウラストと名乗る老人の言葉を信じれば、彼はベクヘスという名前の悪い人だった。
二人の言葉以外に手掛かりは無く、正直どちらが真実を言っているのか全然わからない。そこで私は、その決断をクレアの直感に委ねることにしたのだ。
しばらく考えた後、クレアは私の目を真っすぐに見て大きく頷いた。私は笑顔で頷いて本を取り出し、老人が閉じ込められた世界が描かれた頁を開いた。
一度家に帰ってから、お父さんに全ての事情を説明して一緒に来てもらったほうが良いのかもしれない。でも何故か、そうしようとは思えなかった。
「ゼフィーナ」
頁に書かれた言葉を口に出すと、本に描かれている世界がゆっくりと動き始めた。深い霧で数メートル先までしか見通せない密林には、異様な植物がみっしりと生えている。
でも、その景色の中に老人の姿は無かった。彼は何者かに追われているようなことを言っていたので、それから逃れて動き回っているのかもしれない。
「さぁ、行こう。私につかまって」
私はクレアを呼び寄せて自分の腰に抱きつかせ、新しい世界の入口へと指先を伸ばした。二人同時に移動出来るのかどうかは分からないけど、多分大丈夫だろう。
指の先が動く絵に触れる。その瞬間、眩い光が本から溢れ出し、私は堪え切れずに目を閉じた。そして次に目を開けると、辺りには鬱蒼とした密林が広がっている。
ねっとりと漂う霧の中に捩れた樹々や見た事も無い植物が立っているのが見え、それらと足元の地面はびっしりと蔦草に覆われている。見えるもの全てが緑色だ。
しっかりと手に持っていた筈の本は、私の手の中から消えていた。老人はあの本を流刑の本と呼んでいたが、やはりこの世界への道は一方通行なのだ。
しばらく辺りを見回していたが、ここから先に続く道などは一切無い。どうしようかと少し悩んだけど、私は思い切って老人を呼んでみることにした。
「お爺さぁーん!」
「おじいちゃぁーん!」
私に続いてクレアも老人を呼んだ。でもひょっとしたら、大声を上げるのはとても危険な事なのかもしれない。
老人は何かに追われているようだった。大きな声を出して歩いていると、その何者かを呼び寄せてしまうかもしれない。
でも他に老人を探す良い方法は無いので、私たちは交互に老人を呼び続けた。と、その時、密林の奥を何かが横切るのが見えたような気がした。
老人が現れたのかと思ったが、どうも様子が変だ。人が歩いたり走ったりするのとは、姿形がまるで違っているように見える。
じっと立ち止まって樹々の間を見ていると、また何かが横切った。だけど今度はひとつじゃない。それに加えて、どっ、どっ、どっ、どっ、と丸太で地面を打つような音が聞こえてくる。
何か、大きな生き物の足音だ。それに気が付いた私は、大急ぎで隠れる場所を探した。どんな化け物が現れるかも分からないのに、とても黙って待っていることなんて出来ない。
「クレア! そこに隠れて!」
私は捩れた樹木の根元にある大きく窪んだ部分にクレアを押し込み、自分もそこに入り込んだ。
木には蔦がびっしりと絡まっていてカーテンのように窪みを隠しているので、そう簡単には見つからないだろう。
足音はどんどん近付いて来て、その数も増えている。私はクレアの肩を抱きしめながら息を殺し、蔦の間から外の様子をうかがった。