〈6.旅の始まり〉
微かな風が頬を優しく撫で、瑞々しい夏草の香りが鼻の奥をくすぐる。
ゆっくりと瞼を開いた私は、自分が引越して来たばかりの新しい家にある書斎に立っているのに気付いた。
腰には妹のクレアがしっかりとしがみついている。続いて目を開けた彼女は、本棚が並ぶ室内を見回した後で私の顔を見上げた。
「帰って来られたんだ!」
「うん!」
長いことぼおっと立ち尽くしていた私は、床に膝をついてクレアと抱き合った。
突然に放り込まれた奇妙な世界での旅は、始まったときと同じように唐突に終わった。まるで夢を見ていたかのように不思議な気分だ。
だけどクレアが同じ体験をしていることや、夏だというのに私が来ているコートが、旅は現実だったのだと教えてくれている。
「おまえたち……どうしたんだ?」
クレアの柔らかい髪から顔を離して振り返ると、そこにはドアの取っ手に手をかけたまま、目を見開いて立っているお父さんの姿があった。
すぐに駆け寄って胸に飛び込んだ私たちに、お父さんは困惑しているようだ。家で留守番していただけのはずの娘たちが泥だらけの酷い姿で抱きついてきたのだから、それも当然だろう。
信じてくれるかどうかちょっと心配だったけれど、私とクレアは自分たちが体験してきた奇想天外な冒険について支離滅裂に捲し立てた。
普通の人なら笑って夢でも見ていたのだろうと言うところだけど、お父さんはちょっと変わっている。優しく頷きながら興味深そうに聞く様子は、私たちを疑っていることなど感じさせない。
私が持ち帰った手帳や紫色に光る鉱石のランプが、明らかな証拠となってお父さんに信じる気持ちを与えたことは間違い無かったけれど。
レストの本が失われ、自分があの世界に行けないと分かったお父さんはとても残念そうだったけど、私たちが語る不思議な植物や建物のことを熱心に聞いてくれた。
「ねぇお父さん。お爺ちゃんを助けたこと、間違ってないかな?」
夜が更けるまで話し続けた私とクレアをベッドに入れたお父さんに、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「そうだな……私だったら助けなかっただろうね」
「じゃあ、間違いだった?」
お父さんはしばらく黙って何かを考えていたが、やがて微笑んで私の頭を撫でる。
「いや、間違いではないと思うよ。人を信じてあげるってことは、とても大事なことだ。ときには疑うことも必要だけど、その気持ちを忘れないで欲しい」
その言葉を聞かされた私は安心して目を閉じ、すぐに眠りに落ちてしまった。
これで、私とクレアの奇妙な冒険の話はおしまいだ。でも、この話には続きがある。冒険の旅から一週間ほどが過ぎたある日、私宛にひとつの小包が届けられたのだ。
差出人の名前も無いその包みを開けてみると、その中には老人とともにあの世界に残してきたはずのレストの本と、一通の手紙が入っていた。
親愛なるお嬢さんへ。
助力には感謝している。もしも君が現れなければ、私は永遠にあの世界の中に閉じ込められていただろう。
あの後、私はリャナナーンへと戻ってみた。恐らく君は裂け目の隣にある施設で、私のことをベクヘスだと語る男の映像を見ただろう。
それを見ても尚、私を助ける為に危険を冒した事は愚かとしか言い様が無いが、同時に賢明な判断だった。
君のことだからもう理解していると信じるが、あの男こそベクヘスなのだ。奴は自分を閉じ込めようとした私を罠にはめ、逆にゼフィーナへと送り込んだ。
これから私は、奴を追うために旅立つ。本から繋がる世界は無数にあり、探索は数十年、数百年続くであろう。
だが旅立つ前に、レストの本を君に贈りたいと思う。崩壊を免れないリャナナーンへの道は消去したが、この本にはまだ幾つかの世界への道が記されている。
本来ならば部外者にレストを渡すことは固く禁じられているのだが、君は例外だ。我々が開拓した世界で、存分に旅を楽しんで欲しい。
それでは、再び巡り会うことが無いことを祈る。もし私と出会うことがあれば、それはベクヘスもまた近くに潜んでいるということだから。
お父さんが手紙を読み終えると、私とクレアは顔を見合わせて本を手に取り、慌ただしく頁をめくった。
手紙に書いてあった通り、レストの本にはリャナナーンと呼ばれる世界の他に、十カ所近い別の世界の光景が描かれていた。
深い水の底に佇む都市。雲を見下ろす展望台。信じられないほど大きな樹木の先端に停泊した巨大な船。頁をめくるたびに現れる世界は、どれも不思議に満ちている。
まだ見ぬ世界での冒険の旅を想像した私の心は、既に本の中へと旅立っていた。