幼い頃に聞いたお伽話。
夢だと思っていた不思議な世界。
深い霧に迷い、理不尽な謎にまた迷う。
ここは何処?
空と砂の間の、この世界は。
■第2話・リャナナーン■
〈1.旅立ちの時〉
昨晩私が眠ったあとも、お父さんはしばらく書類と格闘していたようだ。書斎の大きな机の上には発見した書類がきれいに分類されていて、お父さんが書いた簡単な目録も完成しているようだった。
あの本はというと、机の中央でひっそりと開かれるときを待っている。私たちは、二人で辞書を引きながら不思議で奇妙な日記に引き込まれていった。
『深く、暑い。この森は私が見聞きしたどんな森よりも広大で、樹木は天を貫くように高く成長している。常に霧が前髪を濡らし、厚く腐葉土で覆われた地面は気を抜くと私を飲み込もうと狙っているかのようだ』
「おねいちゃん。外の森もこんななの?」
私が日記を読み上げていると、クレアが不安そうに尋ねた。言われてみればこの辺りの森はとても深く、人もほとんど入っていなさそうだ。ひょっとしたら恐ろしい山猫や猪なんかもうろついているかもしれず、迷ったら二度と家には戻れそうにない。
「そうかもね。でも大丈夫だよ。お父さんは私がクレアくらいの頃に南米に調査に行ったこともあるんだから」
お父さんといえば、帰りが少し遅くなっているみたいだ。もう正午をだいぶ過ぎているのだけれど、きっと買い物などに手間どっているんだろう。
私は書斎にクレアを残し、簡単な食事を作るために台所へと下りた。作るとは言ってもお父さんが帰るまでは材料が無いので、最近主食になっている缶詰のスープだけだ。
この家の台所には午後になるとあまり日差しが入らない。私は気分を変えてテラスで食事をしてみようと考え、スープを持ってクレアを呼びに向かった。
「クレア、ご飯できたよ。天気も良いしあっちのテラスで……あれ?」
書斎にクレアの姿は無かった。一階に下りてきた様子は無かったし、二階の他の部屋に居ても私の声は聞こえているはずなのに出てくる様子もない。
「クレア、早くしないと全部食べちゃうからね」
どうせふざけて隠れているんだろうと考えて、私はクレアが隠れていそうな場所を探し始めた。
本棚の影、物入れの後ろ、カーテンの中、そして机の下。と、そのときクレアが自分を呼んだような気がして私は振り向いた。でもそこには大きな机があるだけ。
机の上には書類やノート、そして中央には開かれた本。私は他の部屋を探してみようと書斎から出て行きかけたが、なにか変な気がして立ち止まった。
机の真ん中の開かれた本。そうだ! 開かなかったはずの本が開いている! 私は急いで机に駆け寄った。
確かにあの本だ。二つの留め金が外され、開かれている。クレアが開いた? そんなはずは無い。お父さんがあれほど試したのに開かなかったのだから。
「なんで……」
私は驚きでクレアのことも忘れ、本を手に取った。開かれていた左の頁には砂丘に建つ奇妙な建物が描かれている。でもこれは絵なんだろうか?
これが描かれた時代に写真なんて無いはずだけれど、私にはそれが写真にしか見えなかった。そして右の頁には、ただ一つの単語が書かれていた。
「リャナナーン?」
思わず声に出して読んでしまう。どういう意味なんだろう。私がまだ知らない単語なのか、左の絵の場所を指した地名なのか。
そして再び絵に視線を戻したとき、私はとんでもないことに気付いた。
絵が動いている! 本の上で雲は流れ、砂はうねり、建物がゆったりと揺り籠のように揺れ始めた。幻を見ているんだろうか? 私はそれを確かめようと、恐る恐るその絵に指先を伸ばした。
指先が絵に触れた、その瞬間だった。私の周りに強烈な白い光が溢れ、急に地面が消えてしまったかのような落ちる感覚、その次に浮く感覚。そして私は気を失ってしまった。